戦場で亡くなられた日本人ジャーナリスト



 沢田教一(1936~1970)戦場カメラマン1970年10月28日ベトナム戦争取材中プノンペンの南で狙撃され死亡。1966年「安全への逃避」(クイニョン北方・ロクチュアン村で銃弾を受けながら川を渡る母子の写真)でハーグ世界報道写真展大賞受賞。『安全への逃避』を含む全28点の写真集について日本人としては2人目のピューリッツァー賞報道写真部門を受賞。死後1971年カンボジア難民の写真でロバート・キャパ賞受賞。

ライカを愛用していた。「カメラマン サワダの戦争」(NHK)

ドキュメンタリー映画「SAWADA青森からベトナムへー沢田教一の生と死」(監督:五十嵐匠)等。


 一之瀬泰造(1947~1973)フリーランス・カメラマンクメール・ルージュ(ポルポト独裁政権・カンボジア)取材にアンコールワット北東部に潜入。1973年11月クメール・ルージュ側に捉えられ処刑された。「安全へのダイブ」UPIニュース写真月間最優秀賞。

処刑された場所(シェムリアップ州)に村人が建立したお墓がある。「地雷を踏んだらサヨウナラ」の言葉を残し消息を絶った。彼が愛したニコンFは被弾していた。

 

 橋田信介(1942~2004)報道写真家:2004年5月27日イラク戦争取材中、マハムーディヤで甥の小川功太郎(33歳)と共に射殺された。イラク派兵を行った日本政府に対しては遺憾の意を表し、イラク戦で目を負傷した少年の治療を呼びかけ、彼の死後ではあるが、少年は沼津市の病院で治療を受けることが出来た。

自衛隊がイラクで水の供給に関して取材。サマーワ近郊では、フランスのNGOが自衛隊の何倍もの水を供給していることを報道。

 サマーワの自衛隊駐屯地に立ち入り許可証を受け取りに行った帰路で襲撃に合い殺害された。日本電波ニュースカメラマンとしてベトナム戦争取材。フリーとなってからは、バンコックを拠点にアジアの戦争報道。カンボジア内戦、ビルマ動乱、パレスティナ、アフガン、ボスニア等、戦場ジャーナリストとして報道し続けた。 

 

 長井健司(1957~2007)映像ジャーナリスト:日本テレビのディレクターを経てAPF通信社の契約記者として活動。ミャンマーのヤンゴンでの軍事政権に対する僧侶・一般市民の反政府デモを取材中に、軍の兵士に至近距離から銃撃され死亡。「誰も行かないところに誰かが行かなければ」と語り、パレスティナ、イラク、アフガニスタン等を取材。

映像作品「バーンロンサム」タイ・チェンマイのHIV専用施設に暮らす子供達とスタッフを取材したドキュメント。「急増するエイズ孤児~タイ・7500人の子どもたち~」「イラク戦争バグダッド陥落」「家に灯った原爆の火」等。 

 

 村本博之(1966~2010)カメラマン:オーストラリア放送協会等を経て、1995年ロイター入社。日本支局でカメラマンとして活動。2010年4月8日、タイでタクシン・チナワット元首相を支持する反独裁民主同盟(UDD)のデモを取材中、UDDと治安部隊の衝突に巻き込まれ、銃撃を受けて死亡。 

 

 山本美香(1967~2012)ジャーナリスト:ジャパンプレス所属。1995年朝日ニュースターからフリーランス。アジアプレス・インターナショナルを経て1996年からジャパンプレス記者。

タリバーン支配下のアフガン、イラク戦争下のバグダッドからのレポート。

彼女はジャーナリストとして真実の報道によって、少しでも戦争による犠牲者を少なくできると信じて活動していた。

2012年8月20日、シリア内戦取材中アレッポにてシリア政府軍の意を受けた傭兵の銃撃を受けて死亡。街中での突然の急襲で、銃撃を受けた時もビデオカメラを回し続けていた。右腕及び首に縦走痕があり、防弾チョッキの腹部にも弾痕があった。