“集団的自衛権”の意味するもの
すでに時代はネクスト・ソサエティといわれる価値観の異なる時代に突入しています。施政者も市民もこれからの混沌とした国際関係を乗り越えて行くためには、新たな価値観を創出して行かなければならない時にきています。しかし安倍政権は集団的自衛権という旧態然とした価値観に未だしがみついています。日本政府が臆面もなく言うところの「積極的平和外交」という欺瞞を取り繕うための方便が集団的自衛権なのです。軍事力を背景とした外交とは、どんな事態にも戦争は辞さないという見え透いた力の外交の表現でしかないということは、誰にもわかることです。
「集団的自衛権」に対する違憲性や法解釈の欺瞞性などは様々なところで広く見聞きされていると思いますので、ここでは論じません。ここで論じるのは、「それでは軍事を背景としないでどのように尖閣や竹島、北方領土や北朝鮮の拉致問題、アルジェリアでのテロ、南シナ海のトラブル、ウクライナの混乱、シリア難民、等を解決していくのか?」という具体的な諸問題について、市民活動家としての独自の視点で回答したいと考えたのが今回のキャンペーンの主旨です。
2002年に発売されたP・F・ドラッカー氏の「ネクスト・ソサエティ=歴史が見たことのない時代が始まる」(ダイヤモンド社刊)では次のように述べています。
◆2001年9月のテロ攻撃は本書の意味を倍加させたともいえる。アメリカへのテロとそれに対するアメリカの対応は、世界の政治を根本から変えた。今日、中東だけでなく世界中のあらゆる国が混乱のさなかにある。しかし、急激な変化と乱気流の時代にあっては、たんなる対応のうまさでは成功は望みえない。企業、NGO、政府機関のいずれであれ、その大小を問わず、大きな流れを知り、基本に従わなければならない。
◆第二次大戦後の半世紀間、企業はその経済的側面、すなわち価値と雇用の創出において大きな成功を収めてきた。しかし、ネクスト・ソサエティにおける企業とその他の組織の最大の課題は、社会的な正統性の確立である。
*新たな制度と理念の誕生
われわれは、IT革命の後においても新たな理念と制度の誕生を目にすることになる。すでにEU、NAFTA、南米のメルコスールなどの地域共同体は、従来の意味における自由貿易主義でも保護貿易主義でもない。それらのものが目指しているのは、国民国家の経済主権と超国民国家の意思決定権とのバランスである。」
<本論>
「集団的自衛権」とは、第二次大戦後69年間も続いて来た軍事戦略の継承でしかありません。冷戦時代の軍拡競争、核軍備競争、軍備による国際社会への威嚇、といった余りにもナンセンスな価値観に基づいたものといえます。すでに新たなソサエティに生きている世界を現実として捉えるとき、経済も政治も全く新たな視点を持たなければならないというのは必須の事実です。
「この指とまれ」式のいじめっ子的国際感覚から決別しなければ、今の私たちの生きる価値すら否定する事になります。
欧米各国と日本が手を結び、集団的自衛権という古い概念で、中国やロシアに対抗するが如き道は、もうすでに使い古された選択肢です。国連の主導による国際平和へのアプローチも、理想的に見えて、結局は何も実現は出来てはいません。それはシリアやウクライナの解決に対し全く無力だったことでも判る筈です。現在の国連そのものが、第二次大戦の遺物でしかないといえます。常任理事国が米・英・仏とロシア・中国という5か国だけで構成され、しかも最終議決はこの5ヶ国の夫々の思惑だけで発動された拒否権によって、国連が持たなければならない機能を果し得ていないとうのが現状です。
それでは、今日の尖閣諸島や竹島、北方領土、あるいは北朝鮮のもたらしうる危機に対して、どのような戦略を日本国民は選択すべきでしょうか?
歴史的な事実と、未来の在るべき人類の姿を俯瞰して、現在の私たちが執るべき道は、明らかに国際的正義を実践する場を創造することしかありません。
日本が執るべき選択肢は、当事国(例えば日本と相手国たる中国、韓国、北朝鮮、ロシア等)と全く当事者ではない仲裁国(米、英、EU、アフリカや中南米諸国、中東諸国、等すべての国家の中から)との協議機関を設置します。そこでは領有権を協議するのではなく、当該地域を如何に効果的に生かすことが出来るか、そして当該国家同士が如何にその目的に向かって貢献し得るか、を協議するための機関です。これは現有する国際海洋裁判所や国際司法裁判所などとは全く意味の異なるものです。
国家における領有権が国民全体の必須事項であるという概念は20世紀までの価値観だと気付かなければなりません。ウクライナに於ける事態が、明確にその事実を指し示しています。物理的な領土の確定は、将来において禍根を残すだけのものといえるのではないでしょうか。世界は遅かれ早かれ一つにならざるを得ません。国家だという概念だけですべてを論理的に整合させることは、実質的には不可能なことです。イスラエルとパレスティナ、ウクライナ、東シナ海、南シナ海、スーダン、シリア、アフガニスタン、ソマリア、東欧各国、等々、世界中が国家と言う概念に振り回されています。
宗教と人種、民族と異文化の複雑な交合の上で成り立つ世界を、一つの固定化された概念や倫理で押し込むことは、所詮は無理な事であり、安らかな平和共存などは何時まで経っても実現はされないでしょう。
国家と言う概念から一旦決別し、領有権を一時棚上げにして、当該領域を当事国間の価値観だけをごり押しするのではなく、如何にその地域が国際的な価値があるかを検討するところから始めるのが、やがてはベストの道を選ぶことが出来ると考えることが肝要なのです。
国際間の喫緊の課題として、ムスリム社会におけるアルカイダを始めとする国際テロ組織と呼ばれる集団、ボコ・ハラムなどという暴力的反西洋主義の集団、シリアや北朝鮮に見る傲慢な独裁政権、そして世界第二位の経済大国・中国の共産党一党支配による少数民族への弾圧、ロシアに蘇ったプーティンの力学的恐怖政治、アフリカ諸国における施政者たちの財政の私物化、等々、不条理な国家は未だ世界中に蔓延しています。
しかしこれらはすべて変化するべき理念を持たず、ネクスト・ソサエティに突入している21世紀において、新たな哲学を持たない故の混沌といえます。
日本は先進国として世界をリードしうる立場にある筈です。そしてこの事実を国民全体が共有し、新たな価値観の構築に理解を示すべき時です。
ムスリム社会の懐に飛び込み、政教の分離の必要性をアピールし、彼らが生きる事の最上位と考えている心安らかな愛に満ちた日常と豊かな知識への遡求を可能とする社会の実現へ向けて、共に手をとり新たな生活空間を構築して行くことが、テロなどというものを無くしてしまう最上の手法だと気付かなければなりません。
北朝鮮は難題ですが、経済的な圧力をかけて遠くから見ているだけではなく、頻繁にあらゆる国々からNGOや市民団体が北朝鮮を訪れ、人的・文化的交流の中から、施政者達の心を開かせて行くのが一つの望みうる大きな選択肢ではないでしょうか。
シリアに関してはただ一つのことで開放され、一夜にして200万難民は救われます。それはロシア・プーチィン大統領がシリアとの縁を切ることです。
ボコ・ハラムやヒズブッラー、そしてアルカイダを始めとするテロ組織を弱体化させ得るのも簡単な事ではありませんが、これ以上イスラーム戦士(ムジャヒディン)を、あるいは自爆テロを無くして行くには、イスラーム社会全体への経済的支援が求められます。働く場を提供し、教育の機会を平等にし、男女差別をなくし、落ち着いた日常生活を可能にする支援がまずプライマリーなことでしょう。ムスリム社会では殆んどが1%にも満たない施政者達に富が集約されていますが、その事をいくら我々が言葉で説得しようと試みたとしても、今の処は無理でしょう。ムスリム市民はどこでも貧困に苦しみ、教育によって成長して行くことが出来るのも、ごく一部に限られているのが現状です。このような状況を変えて行けるのも国際的な市民支援です。国家間のODAなどは施政者や建設業者達の私服を肥やすだけです。地道なNGOなどの市民間援助と交流が、唯一ムスリムの施政者達を変えて行く道だといえます。そして肝心なのは、イスラーム教を指導するウラマーと呼ばれる人達の中に、現状のテログループの根幹をなす宗教解釈を異論とする人達も多く居られるということも忘れてはなりません。
日本が今世界に貢献できる道とは、ネクスト・ソサエティをリードする理念として、尖閣列島や東シナ海の問題を解決するために、各国に協議機関の設置を最優先として求め、対話の中から解決の糸口を見出す場を創りだすことです。集団的自衛権などというまさに時代錯誤の手法に明け暮れているだけの日本の政治家達の愚かさを、日本国民は明確に知らなければなりません。政治家達を指導し、目を覚まさせ得るのは、唯一私たち日本国民であり、欧米各国のどこもなしえていない新たな価値観を現実に定着させることが出来るのです。既定の事実としてこれを実現し、欧米各国の市民にも、新たな機運を大きなムーブメントとして喚起しうるのは、今の処私たち日本人だけだと考えられます。これは世界全体を現実の中で変革していく大きな原動力となるだけでなく、すべての軍縮や核兵器廃絶にも繋がる根幹となりうるものだと言えるのではないでしょうか。世界の市民から日本に対しての絶賛がもたらせられることでしょうし、これは戦後69年間平和憲法を守り続けてきた日本だけが為し得ることなのです。
集団的自衛権と表現すれば、如何にも自衛の為と受け取られますが、根本は人間が本来本能の中に持つ自我欲の発現です。群れをなして自己の欲望を満たそうとする他の動物たちと何ら変わりはないと言えます。知恵と理性をもつ唯一の存在である人間が執るべき道ではありません。実に恥じ入る行為だと認識しなければなりません。
“いじめっ子、世に憚る”という時代は終わりです。
政治家は一国の利益や国民の我欲に諂うだけの論理しか持たない様では、失格者の烙印を押さなければなりません。
自らの政治生命や政党間の権力闘争だけに明け暮れるような政治家達は、即刻引退し、廃業してもらいましょう。このような人物や政党は、これからの日本社会だけでなく、世界や人類の未来にとっても全く必要のないものですから。
-NGO市民プラットフォームジャパン-
工藤百合子、高島鯉水子、藤原節男、七田由利、青山千恵、篠田千佳子、笹岡 哲
-P・F・ドッラッカー氏の「ネクスト・ソサエティ=歴史が見たことのない未来がはじまる」より抜粋-
◆個々の変化に振り回されてはならない。大きな流れそのものを機会としなければならない。その大きな流れが、ネクスト・ソサエティの到来である。若年人口の減少であり、労働力人口の多様化であり、製造業の変身であり、企業とそのトップマネジメントの機能、構造、形態の変容である。
◆「ネクスト・ソサエティをネクスト・ソサエティたらしめるものは、これまでの歴史が常にそうであったように、新たな制度、新たな理念、新たなイデオロギー、そして新たな課題である。
◆先進国の政府のうち、今日まともに機能しているものは一つもない。アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、日本のいずれにおいても、国民は政府を尊敬していない。信頼もしていない。
◆あらゆる国で政治家のリーダーシップを求める声が聞かれる。だが、それはまちがった声だ。あらゆるところで問題が起こっているのは、人に問題があるからではない。システムに問題があるからだ。いまや国民国家の政府そのものにイノベーションが必要とされている。今日の政府は、400年前に形ができた。一六世紀末につくられた国民国家と政府は当時最高のイノベーションだった。事実、200年で世界中に広まった。いまでは新しい考え方が求められている。この60年間を支配してきた経済理論と経済政策についても同じことがいえる。今後25年間、イノベーションと起業家精神がもっとも必要とされているのが政府である。
◆資本主義は経済以外のことはすべて無視してきた。しかも市場さえ、何かをできるのは短期においてのみだといわれる。それでは長期の観点から、社会はどのようにマネジメントしていったらよいか?
これからは、二つのセクターではなく三つのセクターが必要である。政府と企業に加えて市民セクター、あるいは第三セクターと呼ばれるもの、すなわちNGO(NPO)が必要である。
<これは氏が亡くなられる3年前、93才の時に発刊されたものです>
*ドラッカー氏:(ペーター・フェルディナント・ドルッカー 1909年11月19日 - 2005年11月11日)は、オーストリア・ウィーン生まれのユダヤ系オーストリア人・経営学者。「現代経営学」あるいは「マネジメント」(management) の発明者、またマネジメントのグルの中のグルと呼ばれる。特に非営利企業の経営には大きなエネルギーを費やした。1990年には、『非営利組織の経営』(原題:Managing the Nonprofit Organization: Principles and Practices)を著している。彼のもっとも基本的な関心は「人を幸福にすること」にあった。そのためには個人としての人間と社会(組織)の中の人間のどちらかのアプローチをする必要があるが、ドラッカー自身が選択したのは後者だった。<以上はWikipediaより>
<本書の訳者上田惇生氏からのメッセージを添付させて戴きます>
「これまでもドラッカーは、今日の転換期、バブルの発生と崩壊、少子高齢化の到来、イノベーションと起業家精神の復活、そしてそれらの意味、講ずべき対策、もつべき思考態度について、間に合うだけの時間的余裕のもとに教えてくれた。今度もまた、ネクスト・ソサエティに備える時間は十分ある。今度こそ、読者各位にとって、それぞれの専門分野、仕事、組織、そして生き方にとって、本書の説くものが何を意味するか、何を要求するかに思いをめぐらしつつお読みいただき、明日ではなく今日の行動に結びつけていっていただければありがたい。」
「ネクスト・ソサエティ=歴史が見たことのない未来がはじまる」
P・F・ドラッカー著ダイヤモンド社刊(上田惇生訳)
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