≪市民のための民主化の行動指針(1)≫
ー七田紹匡ー
このちっぽけな限界集落の中にいて、「顔が潰れる」と町会議員経験者や現職の行政職員から苦言を呈された事が何度かある。 こんなことがあった。ウチに長期滞在していた友人が自転車で近所の道を通行中、公共事業の工事車両から「煽られた」と当局に苦情を言った。これは当時埼玉県民であった客人と行政当局との間の出来事で、ボクとしては何とも言いようがない。もちろん、縁もゆかりもない地域の新参者のウチにとっては、こういういざこざに関って、波風を立てたくはない。
ムラ社会のロジックに従えば、ボクがその友人に「顔が潰れるからやめてくれ」と言うべき局面だ。友人がその辺の微妙な立場を想像する事が出来れば良かったのだが、あえて彼の行動を制止する事はしなかった。大人のやる事だし、民主主義国家の住民として何ら間違った行為ではないから。 ところが、というべきか、果たして、というべきか、山村にはこうした公共事業を受注する土建業界に勤める人が多いので、
「行政から注意を受ける」などという事態があるとすぐに知れ渡る事になる。
すぐに元町議である自治会長がボクのところへ(もちろん友人のところではない)飛んで来て、そう言う事をされると顔が潰れるからやめてくれと。友人に「伝えます」と対応しておいた。 もう一人は現職の市の「教育行政職員」であり、こともあろうにPTA会長も努める人物。ボクはそのPTA会長自身の指名によってスクールーガードリーダーなる役職(これはPTA内部の役職ではなく市から委嘱された役職)を拝命したのでその職掌の一環として、懸案だった下校時の児童の見守りについて(保護者の負担を軽減する方向で)の改善を学校を通して当局に提案した。一方、会長は役員会に諮る事無く下校時のスクールバスの運行について当局に要請していたので、当局に会長案と違う案が届いた事で「面目がつぶれた」と判断したようだ。
そしてお決まりのフレーズ。 「筋を通せば道理が引っ込む」という言葉がある。若い頃は「筋」と「道理」の違いが分からず、この格言の意味が分からなかったが、こうしたムラ社会のロジックに接するようになってから身を以て理解することが出来た。この場合の「筋」とは、よく「あの人は一本筋の通った人だ」などという場合の「筋」とは意味が違い、人間関係における序列を意味し、「筋を通す」とは目上の人間の「顔を潰さない」という意味だ。
一方「道理」とは「こうすればこうなる」という、人間の情緒に関係なく存在する「お天道様の理(ことわり)」であり、この地上や天体に働く法則のことである。 社会生活を営む上で「筋」を配慮する事が欠かせないのは言うまでもないが、それを「道理」に優先させては必ず後で不都合が生じる。それが道理だからだ。それでも実際の社会生活の中では道理を曲げて筋を通さなければならない場面が多々ある。特に「ムラ」と片仮名で表記される、世間一般とは異なる特有なロジックの支配する社会では、筋が常に道理に優先する傾向にある。そしてそれは将来性のない末期症状を呈した社会に共通する特徴である。
そして、残念ながら我が日光市もそんなムラの一つであるようだ。 ついでに書くが、「郷に入っては郷に従え」という言葉がある。やはりこの言葉も何度か投げかけられたことがある。 驚いたのは小学校長の口からこの言葉が飛び出した時だ。ウチでは第一子の小学校入学以来12年間、給食を断って弁当を作り続けている。入学の際、転校の際、我が家の食育の方針を学校サイドに説明し了承されて来たのだが、学校長が代わると何故か給食をとるようにと要請される。その度に我が家の考え方を説明すると、「そういう立派なお考えがあるなら何も申し上げる事はありません」と納得してもらえる。 転校して3人目の小学校長もやはり給食を要請して来たので同様の説明をしたのだが、その時に出た言葉が「郷に入っては郷に従え」。 この言葉は中国のことわざから来ているのだが、ことわざとは人間が生きて行く上での知恵が語られているのであり、その知恵は生活の中で個人的に悟られるはずのもので、人生の先輩が新参者に諭すことがあっても、公的権威がこの言葉を以て自分の意に従わせようとするなどは言語道断だ。
公務員として出世コースを歩んで来た人間の金科玉条であっても人に押し付けるような物ではない。 どうも日光市にはこういう感覚の公務員がたくさんいるらしい。 さて、このことわざの意味するところは「その土地(又は社会集団一般)に入ったら、自分の価値観と異なっていても、その土地(集団)の慣習や風俗にあった行動をとるべきである。」ということだが、その前提となるのは、「自ら好んでその集団に入った」か「自分の意志ではないが、そこからは逃れられない」情況下で有効な知恵(心の持ち方)だということ。そしてその「郷」を支配するロジックが例え自分の思考様式とは違っても、それに従う事で大きな支障がない場合である。例えば生命の危険があるような「郷」には入らない、あるいは抜け出す選択肢があるわけである。 人間の出入りの少ない地域社会にはその地域独特の価値観や秩序がある。その価値観に100%染まってしまえばこれほど安心な事はない。ただし、それはその地域社会が永続的に持続可能なシステムになっている場合だ。多少理不尽なことがあっても、その中でなんとか自治が保たれ、人口や生産量や文化が保たれて来た実績があり、今後もそれが続く見込みがあるのなら「郷に従う」価値もあるだろう。
しかし、人口が激減し、若い世代が郷を見捨て、何十年も正常な世代の新陳代謝が無く、新しい価値観を受け入れる事も無く、もうとうにリタイアしていい高齢者が未だに世帯主として権限を持っている地域、新生児が生まれなくなった、未来のない地域を支配する価値観に喜んで染まろうという人間はいない。 ボクの言動が、結果的にそんな地域の伝統的な秩序をかく乱している事は自覚している。しかしそれは本来長い年月をかけて世代交替の中で自然に行われるはずのものだったのである。
そして秩序を乱す事は決してボクの目的でも意図する事でもない。地域の子供達のためにより良い思想風土と、生活の基盤を作って渡してやる事が今を生きる大人の義務だと考えるからだ。 ただ、地域が衰退し消滅に向かう事は必ずしも悪い事ではないのかもしれない。彼らの価値観の中で、大安心の境地の中では、ムラの外形が消滅してしまう事など取るに足らない事なのかもしれない。心中するのが嫌であればコミュニティ(人間集団としての)から出れば良いだけの話しだ。 「問題は」、市のような基礎自治体が税金を使って事業を行う場合に、そのような未来のない集団の、滅びつつある発想によって、非民主的かつ非論理的なプロセスで得られた合意のような物を「地域の総意」として正当性を与えてしまう事だ。
実はこれは辺境の限界集落だけの問題ではない。先に書いたように比較的中央にいる公務員も精神構造は大して変わらないし、行政と地域社会だけでなく、あらゆる業界、企業、団体との関係において不透明な、民主的でない合意がなされ、同様の前近代的行政手法で物事が決定され予算が執行されている事は容易に想像がつく。 せまい地域社会の中でこうした事を指摘する事はとてもリスクがある。過疎の農山漁村の跡取りは大抵役場か郵便局か運送屋か土建屋か農協に勤めているものであり、シガラミでがんじがらめになっている。しかしこれをいつまでも許していては地方自治体も国も破産してしまう。皆で税金を盗みあい、あるいは税金泥棒を見逃し、その事によって皆が貧しくなっている。 自分に火の粉の降り掛からない安全な場所でネットに向かって遠い国政の批判を繰り返していても、政権は痛くも痒くもない。気づいた人から身近な不正を指摘し、民主的で真っ当な手段によって地域の小さなアベたちから特権を取り戻し、地方からこの国の病理を治して行く作業に取りかかることが社会人の努めではないだろうか。