《東京新聞:黒沼ユリ子の御宿日記》 1/12/2014

ーベラ・チャスラフスカの信念ー                 

 今年もまた十一月十七日が巡ってきた。毎年この日が来ると、チェコ人なら、あの二回の「十一月十七日」を脳裏に浮かべるはずだ。

 一回目は、一九三九年十一月十七日。占領中のナチス・ドイツ軍がプラハで抵抗する学生デモ隊に発砲、一人の学生の死を契機に再び起こったデモに絡み、学生らが処刑されたこの日がチェコ人にとっては暗黙の「抵抗記念日」となった。

 そして一九八九年十一月十七日、学生たちはその五十周年追悼集会を開いた。静かにスタートしたデモ隊の火種は大きく燃え盛り、劇作家バツラフ・ハベル氏(後の大統領)らが反体制派の連合組織「市民フォーラム」を結成して合流。一週間後、ついに大統領と共産党第一書記が辞任して政権は崩壊した。それは一滴の血も流さずに成就したことから「ビロード革命」と呼ばれる初耳のことばを、将来の歴史書に残した。

 六八年の「人間の顔をした社会主義」を標榜(ひょうぼう)した民主化運動「プラハの春」が同年八月のワルシャワ条約機構軍によるチェコ侵略により弾圧されて以来、国民は「厳寒の冬」とも呼べる自由の剥奪と自己批判の強制に直面した。長く「転向」を強いられてきた大人たちは当初、八九年の学生たちのデモを窓の内側から黙って眺めていたそうだ。

 しかし、「プラハの春」の炎は誰にも消すことができなかった。私も何度か共演したチェコ・フィルハーモニー管弦楽団も「抵抗のコンサート」を開いた。

 私の手元に一枚の写真がある。プラハの有名な音楽の殿堂スメタナ・ホールがビロード革命の勝利を願う聴衆のVサインで埋め尽くされている。八九年暮れ、チェコの名ピアニスト、ヤン・パネンカ氏のエヴァ夫人から届いたものだ。芸術家たちが積極的に社会に参加し、連帯する姿を見て、思わず「アッチ・ジーエ!」とチェコ語で「万歳」を叫びたくなった自分を、今も思い出す。

 私はずっと前から、チェコとメキシコ、日本をつなぐ「唯一の人」と自負していた。ところが偶然、もう一人私に似てこの三つの国を大切にしている女性と東京で出会った。

 六四年の東京五輪、六八年のメキシコ五輪と二大会続けて多くの金メダルを獲得した体操の名花ベラ・チャスラフスカだ。

 五八年にプラハ音楽芸術アカデミーに留学して以来、チェコは私にとって第二の祖国。そこで恋をして結婚までしてしまった相手の国メキシコが第三の祖国と言える。

 他方ベラにとって、一時も忘れ得ない日本の体操界の選手たちとの深い友情の絆が、苦境に追い込まれた彼女の精神面での支えとなっていた。さらに五輪の際、メキシコで結婚し、多くのファンたちの募金でアカプルコへのハネームーンも実現した。

 その後、自由と民主主義を希求する六八年の「二千語宣言」へのサイン撤回を拒み続けたが故に迫害されていたころ、彼女はメキシコでコーチとして二年間過ごしたこともあったのだ。


《東京新聞:黒沼ユリ子の御宿日記》

     ー語り続けたい岩和田の勇気ー           2014年11月3日

御宿の沖で嵐に遭遇したスペイン船の様子を描いたメキシコ在住の画家・渡部思乃(しの)さんの作品「ガレオン船」)

 

 そして思いをはせたのが、四百五年前の同じ季節、メキシコに向かうスペイン船の海難事故で、三百十七人もの人命を救助した岩和田(御宿町)の先人たちの「超人的」な行動だ。この「英雄的人類愛」などでは到底表現できない史実を、まず日本中の教科書に載せ、スペインとメキシコでも当然それにならってもらいたいと思う。

 メキシコ市での引退リサイタル、アメリカへの小旅行を経て十月上旬、ほぼ三カ月ぶりに御宿に帰ってくると、台風18号が待ち受けていた。わが家の眼前の太平洋は、水平線までが見渡す限り真っ白。踊り狂ったように荒れる高波。そんな光景を見るのは初めてで、遠目にも怖くなるほどだった。

         ♪語ろう 忘れずに

              伝えよう 今こそ

         あの日の奇跡を

              語り続けたい

         村をあげての愛と勇気

              岩和田の人々の

         広い心とやさしさを

              忘れずに語り続けたい

 「あの日を忘れない」という歌(金沢智恵子作詞・黒澤吉徳作曲)だ。

 御宿に引っ越して、地元のコーラス愛好会に入れてもらった。そこで歌われているこの歌を率先して御宿で、千葉県で、そして日本中で歌いながら語り継いでもらいたいものだ。

 コーラスは私にとって新しい体験だ。みんなで声を合わせて歌う行為が、何と力強い連帯感を分かち与えるものかを知った。弦楽合奏とは、どこか異なる。それは楽器という「他者」を媒体にせず、人間の肉声によるぬくもりのある「和(ハーモニー)」だからであろうか。

 そもそも「和」と言う価値観は、日本人が誇れる概念であったはずではないか。都会では「向こう三軒両隣(りょうどなり)」と言われ、昔からの村落では神社を中心に肩を寄せ合って「和」を尊んだ。

 ヨーロッパはどうだろうか。例えば私が目にしたフィンランドの田舎では、広大な農地に家がポツンと一軒。隣家までは「少なくとも二キロ離れていて普通」と言われ、私はそれを徹底した西洋型個人主義とみる。

 今日、日本では個人主義とはまったく異なる自己中心主義がはびこる。それは相当深刻ではないか。それを資本主義の原点とすれば当然なのだろうが、「もうかることなら何でもOK」と言わんばかりの経済優先が目立ちすぎるのだ。

 人件費のより安い海外への企業移転はもちろん、意味不明な商品名にカムフラージュした危険ドラッグの製造・販売を見ていると、将来の町村の過疎化や狂気による犯罪の増加などへの懸念は、どこ吹く風だ。

 東日本大震災や東京電力福島第一原発事故の被災者との連帯感情が、急速に薄れてきていることも否定できない。私もご多分にもれず、「昔は良かったなあ」を口癖にするお年寄りの仲間入りをしてしまっただけなら、まだ少しは救われるのだが。


《東京新聞:黒沼ユリ子の御宿日記》

  -NYで思う先輩作曲家たちー       2014年10月6日

 メキシコでの引退リサイタルを終え、ニューヨークに足を運んだ。久しぶりにMoMA(近代美術館)を訪ねたかったからだ。

 ゴッホ、ゴーギャン、モディリアニ、クリムト、セザンヌ、ブラック、マチス、ミロ、それに若いころのピカソ…。一八八〇年代以降の画家たちの熱とパワーは、一体どこから生まれたのだろうか。二十世紀前半になだれ込むその個性豊かな内発的探究力には圧倒させられる。

 だが、彼らの中に埋没することなく、メキシコのリベラ、オロスコ、シケイロス、フリーダ・カーロ、タマヨなどの作品が特別に光って見えたのは、私の「欲目」のせいだろうか。

 ヨーロッパからの強風に対抗するように「全く新しい風」を吹き込んだメキシコ画壇の存在は、未知のハーブの味のように異彩を放ち、二十世紀をヨーロッパ勢の独占から解放する大役を果たしていたことが一目瞭然に認められる。

 それに引きかえ、ジャクソン・ポロック、アンディ・ウォーホル、マーク・ロスコなどアメリカを代表する画家たちの作品からは、彼ら以前のヨーロッパ画壇をいかにして乗り越えるか、悲鳴に近い叫び声が聞こえるようだった。

 そして不意に、自分より少し先輩の日本の作曲家たちも彼らと似たような苦汁を味わっていたのではないかという気がしてきて、しばし、この数年の間に次々と訃報に接した懐かしい友人たちの顔を次々と思い浮かべてしまった。

 邦楽器をオーケストラと対話させた武満徹、近代フランス音楽から強い影響を受けた三善晃、尺八独奏曲を発表した諸井誠、バイオリン協奏曲にマラカスまで参加させた広瀬量平…。

 もし、彼らの中の誰かと一緒にポロックやロスコの絵の前に立つようなことがあったら、黙って私にうなずいてくれていたのではないだろうか。

 今回の小旅行では「年齢を自覚せよ」というメッセージが私について回った。携帯電話を持っていないと、人間が野生動物に近い存在になってしまう。空港での入国審査に必要な書類の文字は小さすぎて、メガネをかけてすら読めなかった。また、大都会の喧噪(けんそう)の中、人の話し声も手を耳の後ろに当てないとよく聞き取れない。ところが、一カ所だけは例外で、スピーカーからの大音響には耳をふさぎたくなった。

 ニューヨーク滞在の最終日が、ちょうどメキシコの「独立記念日」の前夜祭と重なり、メキシコ総領事女史の音頭で「ビバ・メヒコ!(メキシコ万歳!)」と叫んだ、年に一度の大集会に誘われた時のことだ。次々と演奏され、歌われる祖国の音楽に千人を超す聴衆が酔い、踊る大フィエスタで、友人のオペラ歌手ホセ・アダン・ペレスがマリアッチ楽団を伴奏に絶唱した「メヒコ・リンド・イ・ケリード(美しく、そして愛するメキシコ)」では最高潮に盛り上がり、今年の思い出のひとつとなった。


《東京新聞:音楽で太平洋に架け橋を:黒沼ユリ子の御宿日記:特集・連載》

 

  ー音楽で太平洋に架け橋をー       2014年9月1日

 去る五月、日本に定住するため、メキシコから帰国した。御宿町を選んだのは、無意識に近かった。メキシコ人と日本人が初めて抱擁した稀有(けう)な歴史を残している地だからだ。

 江戸時代初めの一六〇九年、メキシコに向かっていたスペイン船が台風で房総半島先端の岩和田(現在の御宿町)に座礁した。誰が乗っていたか不明のまま、海に放り出された人々を発見した村人は、老若男女総出で三百十七人も救出した。

 この史実はもっと知られて然(しか)るべきであり、日本が世界に誇れる美談のはずだ。当時の通信網では、その少し前に豊臣秀吉の命によって十字架にかけられた長崎の「二十六聖人」殉教のニュースなど岩和田の村民に届くはずもなく、徳川幕府によるあの厳格な「キリシタン禁止令」が発布される寸前でもあった。

 身の危険に瀕(ひん)している人を助ける行為は瞬発的で、決して「前後の見境もなく!」などと非難されるべきではない。人類が生まれながら備え持つ、自然で崇高な行為ではないか。

 今日、世界を見渡し、ますますそう思う。イスラエルとパレスチナ、シリア、イラク…。爆撃破壊を繰り返す戦場のニュースが絶えない。しかも、戦争勃発の原点の共通項が宗教であることに、私は慄然(りつぜん)とする。

 人類のみが到達し得た哲学としての宗教は、人間の生き方を律するために、各民族の指導者によって説かれ広められた。しかしながら「異教を否定し続けること」は自己中心主義の最たる姿勢だ。

 一九八〇年にメキシコで開設した弦楽器の学校「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」の生徒の中にも、「宗教さえ無ければ」と嘆きながら、ナチスの強制収容所から奇跡的にメキシコへ亡命して来たユダヤ人の孫がいた。

 音楽を愛する心は、平和を愛する心に直結する-。幼児から青少年までを対象にした「アカデミア」を開設したのはこうした信念からだ。以来三十年間、アカデミアで学ぶ生徒たちと、日本で音楽を修行中の子供たちが出会い、友情を深める「日本・メキシコ友好コンサート」を両国で幾たびも開催して来た。

 「音楽で太平洋に架け橋を!」という夢が実現し、相手の国の文化に親近感を持つ人々は双方に増え続けた。

 メキシコ大地震(一九八五年)と東日本大震災(二〇一一年)の折、自発的に支援活動に立ち上がった両国の音楽仲によって、それは立派に実証されている。

 そして私はメキシコを離れる決心をした。六月、メキシコで私の「引退リサイタル」が国立自治大学主催で開かれ、著名な壁画家ディエゴ・リベラの壁画をバックに演奏していた私の眼(め)には、いつのまにか予想外の涙があふれ、自分では止めることができなかった。

 「和」(ハーモニー)と呼ばれる「音楽が持つ力」をメキシコでさらに発揮させ続けたかったが、七十歳を越えた。今後は四世紀前の先人たちの人類愛を範に御宿から「音楽の持つ力」を借りて、メキシコと日本の友好がより深まるよう少しでも貢献したい。そう願って私は涙をぬぐったのだった。

 メキシコを拠点に世界で活躍し、御宿町に定住を決めたバイオリニスト黒沼ユリ子さんが毎月一回、御宿、日本、世界を語ります。