【黒沼ユリ子】 

 1956年:日本音楽コンクール第一位と特賞受賞。翌年ロイブナー指揮のNHK交響楽団とデビュー。

1958年に渡欧。1960年プラハ現代音楽演奏コンクール第一位。1962年プラハ音楽芸術アカデミーを栄誉賞受賞と共に首席で卒業。「プラハの春:国際音楽祭」でデビュー。1971年シカゴ交響楽団と初共演。以来、国際的なソリストとして世界各地(40カ国)にて、著名な指揮者やオーケストラと共演し、活発な演奏活動を行う。

 1980年:メキシコ市にて弦楽器の為の「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」を開校。音楽を通して日本とメキシコの友好関係を深めながら、両国の青少年への弦楽器教育に力を注ぐ。アドリアン・ユストゥスを始め多くの優れたヴァイオリニスト達を世に送り出す。

 2005年:メキシコの「セルバンテス国際芸術祭」でのメキシコ人によるオペラ「夕鶴」の日本語メキシコ初演に続き、2008年秋には同作品を日本にて公演。完璧な日本語と、本格的な歌唱と演技による初の外国人による上演の音楽監督を務め、メキシコの声楽界の実力を日本に披露し賞賛を受ける。

著書:「メキシコからの手紙」 「メキシコの輝き」(岩波書店)「ドヴォルジャーク―わが祖国チェコの大地よ」(リプリオ出版)他。3枚のLPが「レコード・アカデミー賞」受賞。プラハやメキシコでも録音。CD「二つの世紀の間で」「メキシコ・ヴァイオリン曲集」他。




         《東京新聞:黒沼ユリ子の御宿日記》    

                   ー「人生地図」の曲がり角ー       2015年12月7日

 生後九カ月を迎えた初孫が、父親に肩車され、父の髪の毛をしっかり握りしめながらどこか一点をしっかり見つめている、愛らしい写真が米国から届いた。地図も台本も手にしていないこの子は今後、どのような道を歩むのだろうか。少し早いクリスマスプレゼントを見て、これまで歩んだバイオリン人生の地図をたどってみたくなった。

 一九四八年のクリスマスの夕方、父が段ボール箱を手に笑顔で帰宅した。その日、その箱によって当時八歳だった私の人生が決定的に方向づけられようとは、一体誰が想像できただろうか。箱の中に入っていた裸の小さなバイオリンと弓との出会いが「地図」の最初の曲がり角となった。

 「スズキ・メソード」で有名な鈴木鎮一先生主宰の「才能教育研究会」東京支部の第一号が、杉並区の阿佐ケ谷幼稚園で開かれることを耳にした父が、サラリーマンの安月給をはたいて買ってくれたバイオリンを手に、私は早速、毎週一回のレッスンに通い始めた。

 だが鈴木先生直々には半年に一度、まるで小学校で予防注射をするときのように長蛇の列をつくり、順番に一人二~三分聴いてもらうだけだった。二年たち、父は「やはり個人指導でなくては」と考えたらしく、知人からの紹介状を手に、当時日本の指導者で最高峰の一人だった鷲見三郎先生の門をたたくことになった。

 阿佐ケ谷幼稚園では常にトップランナーだった私だったが、鷲見先生の門下生たちのレベルの高さには目を丸くした。この頃から、私のバイオリンの家庭教師的存在は父から兄に受け継がれた。

 「ユリ子ちゃん、あそびましょ」という仲良し友だちの声が窓の下から聞こえても「ほらそこ、もう一回!」と何度も兄からダメ出しされる。その間、私の右手は弓を置くわけにはいかなかった。

 一九五一年、ある夏の日のレッスン後、鷲見先生から「今年の秋の学生コンクールにお出なさい」と言われ、兄も私も自分の耳を疑った。まだ半年しかレッスンを受けていなかったからだ。

 「いい勉強になりますから」と先生から強く勧められ、それからは練習につぐ練習で夏休みも返上。あっという間に秋になり、いよいよ全日本学生音楽コンクール東日本大会の予選の日が来た。

 都内への空襲で焼け残った数少ない校舎の一つだった九段高校の講堂。生まれて初めて審査員の先生や聴衆の前で課題曲を一人で弾く。そして、予想外にも本選に進むことになった。

 鷲見門下生として一緒に準備を続けてきたT君は、何とメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲の第三楽章を見事にアップテンポで弾いた。一方、私はヘンデルのソナタ第四番の第一・第二楽章という地味な選曲だった。誰もがT君の一位を疑わなかった。

 全員が弾き終わると、審査員の先生方は退場。静まりかえった講堂で出場者と聴衆は結果発表をじっと待ち続けた。まだ一般のコンサートなど大変少なかった頃だったので、音楽ファンが大勢詰めかけていたのだ。

 突然会場がざわめいたと思うと、事務局の人が長い紙を持って現れ、画びょうで壁に張り付けた。まだ乾ききっていない黒い墨が、ピカピカ光っている。

 「まさか!」

 そこには、「小学生の部第一位 黒沼ユリ子」とあるではないか。

 「黒沼さーん、黒沼ユリ子さーん」。事務局員が私を探しに来て、二階の部屋に連れて行かれた。待ち構えていた新聞社のカメラマンが「はい、こっちを向いてニッコリ!」と言った瞬間、「ドスーン」という音とともに白い煙が立ち上がった。フラッシュにマグネシウムがたかれたことは、後になって知らされた。何もかも、生まれて初めてのことばかり。無我夢中で、何が何やらさっぱり理解できなかったが、私は「人生地図」の二つ目の角を曲がっていた。


《東京新聞:黒沼ユリ子の御宿日記》

タンブッコと日本の音楽 ー2015年11月2日ー


 メキシコが世界に誇る打楽器アンサンブル「タンブッコ」のリーダー、リカルド・ガヤルドが、九月から各地で演奏した後「日本で一番メキシコに近い場所」と私が自負する御宿町のわが家を来訪した。

 彼が率いる「タンブッコ」とは、一九九四年にメキシコの国立芸術院と共同で企画・開催した「日本音楽祭」以来の知己。そのころ「タンブッコ」は生まれてやっと一歳だったが、大勢の日本人演奏家たちと肩を並べて、邦人作品のみを演奏して大成功を収めた。

 そもそも打楽器とは人類最古の時代から存在する楽器でありながら、西洋音楽ではオーケストラの中で活躍するのみだった。「タンブッコ」の四人は音楽学校で学びながら「もっと広く、あらゆる打楽器を使いたい」と意気投合し、新しい道を歩みだした。一九六四年に作曲された大先輩の作曲家カルロス・チャベスの作品名「タンブッコ」をグループ名に冠して。

 当時はまだほとんど打楽器用の曲などなく、すぐさま同胞や外国の作曲家へ作品の委嘱を始めた。今では百二十曲にも上る彼らの演奏曲目を見ると、日本人作曲家の作品がダントツに多い。彼らの二枚目のCDの作曲者には西村朗、近藤譲、嶋津武仁、武満徹、安倍圭子らの名が並ぶ。

 「西欧の作曲家は強弱とリズムに重きを置くが、日本人は、音の質感や色彩感を大切にするから大好き」と彼らは言う。私はそこに温度感も加えたい。なぜなら彼らが演奏する日本の作品からは光の明暗や温度差までも伝わってくるように私には感じられるからだ。

 「音楽と美食は普遍的」というのが食いしん坊の私の持論。「日本の音楽もいつかはユニバーサルになるのだろうか」と夢に描きつつ、私はこの五十年余、邦人作品の演奏や録音に力を入れて来た。日本でバッハやショパンが弾かれ、聴かれているように、外国でも当たり前に日本の作品が取り上げられるようになった時、初めてユニバーサルになる-。でもそれはまだ遠い先だと思っていた。

 ところが「タンブッコ」は、創設以来ずっと世界中のステージで率先して日本人の打楽器作品を披露してくれているではないか。私は「タンブッコ」を「国際交流基金賞」に七年間も毎年推薦し続け、ついに二〇一一年度、彼らに授与された。おかげで以来二年ごとに日本へも演奏旅行に来られるようになり、多くのファンで各会場は常に満席。

 しかも彼らは邦人作品を世界で演奏するのみではなく、小鼓(こつづみ)、どら、和太鼓などの邦楽器も海外の友人作曲家たちに紹介して、それらの音が世界の作品の中にも使われるようになってきている。

 通常「タンブッコ」のステージには、マリンバを含むあらゆる楽器が並び、超絶技巧のテクニックで魅了する。だが二〇一一年三月二十七日、メキシコ市の国立芸術センターのステージに楽器は何もなかった。

 東日本大震災の大悲劇に驚愕(きょうがく)した私は、急きょメキシコの音楽仲間たちに協力を呼びかけ、チャリティー・マラソンコンサートを開いていた。地方での前夜のコンサート会場から八時間余の運転で駆けつけてくれた彼らは手ぶら。だが間髪入れずに演奏が始まった。

 手拍子に足拍子、太もも、すね、胸の上部、空気で膨らせた頬(ほお)まで、音の出せる身体の部分すべてをたたき、こすり、妙な掛け声とともに複雑きわまりないリズムと質の異なる音の組み合わせによって音を愉(たの)しみ、楽しませ、聴衆の目と耳を完全にくぎ付けにしたと思いきや、突然ピタリと演奏はやんで曲は終わった。

 われに返ったかのような聴衆は、口笛とともに大喝采。それは「タンブッコ」のために創られたメキシコの作曲家H・インファソンの「アザの音楽」と命名された曲だった。

 ステージ奥に張られていた大きな横断幕「今日メキシコは日本のために」が、被災者への支援のみならず、何重もの意味を持って私の目には映った。=文中敬称略 (バイオリニスト)


《東京新聞:黒沼ユリ子の御宿日記》

 日本女性よ、男性の「鏡」たれ!2015年10月5日


 四カ月前、この町の仲間と一緒に、女性の活躍や地域活性化を目指して立ち上げた「御宿ネットワーク」。六月の設立記念イベントでは、元駐スイス大使の村田光平さんに「父性文化と母性文化の特徴の比較」をテーマに講演してもらい、「今世界で起きている紛争を解決するカギは、調和、寛容、対話などを志向する母性文化にある」ことなど多くを学んだ。


 さる九月五日には、前県知事の堂本暁子さんが講演。二期の知事在任中の経験から「政策をつくるときに、女性が参加したほうが地域の問題として捉えられる」などと貴重なアドバイスをもらった。


 人は誰でも常に、自分を鏡に映して見ることによって客観的に己の姿を確認しながら生きていると言えよう。それは個人のみでなく町や国にも欠かせないことではないだろうか。歪(ゆが)んだ鏡は別として、通常われわれは鏡に映し出される自分の姿を見て、それを信用するものだ。


 では、社会にとっての鏡とは何であろうか。「大人の行動を見る子供たちの目」や「社会状況を分析する若者たちの目」であったり、「在住する社会を内部から見る外国人たちの目」などいろいろあると思うが、今の日本は「世界」という「鏡」にも己の姿を映し出して見るべきではないだろうか。


 世界と日本はどこがどう異なっているのか。例えば、その一つが「女性の活躍の度合い」だ。国連は一九七五年、女性の地位向上を目指し「国際婦人年」を制定。メキシコ市で開催された第一回の「国際婦人年世界会議」の現場で私は記者に混じって取材を重ねた。四十年も前の日本での女性の地位は、どこからどう見ても欧米や中南米とは、まだ相当開きがあったように記憶している。

 「ウーマン・リブ」という耳慣れない言葉が、ようやく日本でも声高に叫ばれ始めたころだったのだから仕方なかったかもしれないが、以来、日本でも女性の社会進出は公務員、会社員、企業家、研究員、大学教授、裁判官など、どんどん広がった。

 しかし、日本を動かしているのはいまだに圧倒的多数の男性たちだ。憲法上は「男女平等」でも、決して「ハーフ・ハーフ」に至ってはいないのが現実。むろん数の上で同数になれば良いと言うものではないが、世界の国々と比べて見ると日本女性の発言力は比較にならないほど弱い。

 地方議員、国会議員にも女性が見られるようになったのはうれしい限りだが、やはりその数は男性と平等とは到底言えない。衆議院議員の女性割合は、わずか9・5%で世界百九十カ国中百十九位(今年九月一日現在、列国議会同盟調べ)。メキシコ(42・4%)、ドイツ(36・5%)などに比べて圧倒的に少なく、経済協力開発機構(OECD)加盟三十四カ国の中で最も少ない。

 経済誌フォーブスの「世界で最も影響力のある女性」に五年連続で選ばれたドイツのメルケル首相をはじめ、韓国の朴槿恵(パククネ)大統領、ブラジルのルセフ大統領など、今世界で女性の首相、大統領は珍しくない。日本に「メルケル首相」が現れるまで、私は生きていられるだろうか…。

 女性議員よ、男性議員の歪んだ姿を映しだす鏡たれ! そして国会にもっともっとたくさんの鏡を置こう! 男性議員たちが一歩下がって自分の姿を見つめ、襟を正せるように。

 わが子を戦場に送りたい母親は皆無。誰かを殺すための武器をつくりたい女性も皆無。平和に暮らす人々の家を爆撃して破壊したい女性も皆無。放射線が充満する仕事場で息子を働かせたい母親も皆無。

 日本の女性が男性の姿を映す「鏡」となった時、そしてそこに映し出される己の姿の歪みを男性が認めて正す時、日本は、真に平和を希求する人々の住む国となるだろう。


《東京新聞:黒沼ユリ子の御宿日記》

        ーヴァイオリンを弾く天使たちー  

                         2015年9月7日

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 「天使」を実際に見たことのある人はいるのだろうか。なぜ明治時代の英文学者は「天子」とか「天女」と翻訳しなかったのだろうか。天からの「お使い」だから「天使」としたのだろうか…。

 通常、天使には男女を区別するシンボルは見当たらないはず。だが、ほとんどの場合、私たちは幼児か女性に羽がつけられた姿を思い浮かべていないだろうか。

 そもそも「天使」とは、処女マリアに受胎を告げるために天上から降りて来た「お使い」なのだが、十六世紀に初めてキリスト教と出会い、「聖書」を通じてこの宗教の中の登場人物を知ったメキシコの先住民たちは、僧侶たちの説明を耳に、彼らなりの想像力を最大に働かせて壁画を描いた。

 プエブラ州にあるサンタ・マリア・デ・トナンツィントラという小さな教会の天井から床にかけて一面に塗りつぶされるように描かれている天使たちは、ほっぺのふくらんだ裸の幼児の背中に小さな羽が二枚。

 後に、メキシコでも大人の天使が描かれるようになったが、それは大体ロングドレスをまとった女性の姿。それがヨーロッパ生まれの天使のステレオタイプではないだろうか。

 ところが、二十一世紀の今日、海外で作られ、売られている天使たちは、ご覧の通り=写真<1><2>。バイオリンを弾くこの二人は、どう見ても男性であり、しかも老人。はげ上がった頭に顎鬚(ひげ)もたっぷりで、うれしそうにバイオリンを弾いているではないか!

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 私がメキシコでみつけた最も大好きなエンゼル・バイオリニストはこれ=写真<3>。「天使だって、これくらい真剣になって、一生懸命に練習をしなければバイオリンを上手に弾けるようにはならないのだ」と言っている声が聞こえてきそうだ。

 私にとって決して忘れられない思い出の天使たちがいる。一九九九年の大みそか、テーブルを一緒に囲んだ九十二歳の母は元気そうに見えて、ほがらかだった。

 「あら、このローストチキン、随分と大きいのねぇ」と母。「お母さん、これはニワトリではなくて七面鳥の丸焼きなんですもの」と私。みんなで大笑いをしながら、赤ワインで乾杯もした。

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 その翌朝、「今日は元旦。露店もたくさん出ているでしょうから、ちょっと隣町に(パートナーの)高揚さんと行って来ますからね」と言って、私たちは出かけた。そこでこの天使のバイオリニストたち=写真<4><5>=と出会ったのだ。

 「あの天井に近いところに、ほら、居た居た! すごいのがこっちを向いているよ」と言われて見上げると、私たちを見下ろしている大きな天使と目がピタリと合った。そしてその隣には、あと二人の天使がバイオリンをささげるように持って空を飛んでいるではないか。ビックリするやら有頂天になるやら。意気揚々と大きな包みを抱えて急いで自宅に戻った。

 すぐ母にこの大収穫を見せようと部屋に入ると、そこではお手伝いさん一家が母のベッドを取り囲んで泣いていた。

 「あなたのママは三十分前に天に召されました…」

 ちょうどその時、教会からはヘンデルの「ハレルヤ」コーラスが聴こえていたそうだ。

 「ハ~レルヤ、ハレルヤ、ハレルッヤ」と、母も一緒にか細い声を合わせながら、息を引き取ったという。

 九十歳まで日本で暮らしてきた母が、一大決心をして、私の住むメキシコへやって来たのは、その二年ちょっと前だった。極楽鳥花やブーゲンビリアの花々に囲まれ、南国のシンボルのような椰子(やし)の木々を見上げながら庭を楽しんでいた。

 「天使」とは、人を天に連れて行くための「お使い」でもあるのだろうか。しかも母には、バイオリンを弾きながらの天使たちが迎えに来てくれたのだ。

 (バイオリニスト、写真はFabiola Arenas氏)


《東京新聞:黒沼ユリ子の御宿日記》

           ー骸骨のバイオリン人形ー

                            2015年8月3日

 「ほらね、居たよ」

 「えっ!やっぱり匂ったのねぇ…」

 私のパートナーの手には、これまで見たことのないバイオリンを弾く人形がいくつか握られていた。彼らを見つけ出す独特の嗅覚に似たものを、彼は持っていたようだ。私たちは世界各地でこのせりふを繰り返し、今では大小さまざま何と千体を超す「ワタベ・コレクション」となっている。

 バイオリンを弾く人形と言えば、まず天使。続いて多いのがピエロ、男の子や女の子、犬、猫、牛、豚、鳥などの動物だが、驚くなかれ、メキシコ特有の人形は骸骨奏者なのだ。

 メキシコへは十六世紀にヨーロッパ人の姿をした天使たちがキリスト教と一緒に「移住」してきたが、同時にメキシコの民族には紀元前の昔から骸骨(死)と共存する習慣が引き継がれている。

 日本のお盆にあたる「死者の日」(毎年十一月一日・二日)前後には、パン屋に頭蓋骨の砂糖菓子がところ狭しと並ぶ。中にはクリスチャンネームまで骸骨の額に貼ってある。客が同名の友人や恋人に贈るためだ。

 ここで「死」について、少し考えてみたい。

 人類が地球上に生まれてこのかた何を一番恐れてきたか。それはいかなる凶暴な動物などではなく、天変地異だったはずだ。なぜ雨が降って稲妻が光り、天を二分してごう音と共に雷が落ちるのか。それを人類は自分にどう説得できたか。

 その恐怖から逃れるために「神」という存在があらゆる文化に登場し、「決して神を怒らせるまい」という誓いと共に畏敬の念が生まれた。各民族によって異なるが、ある「犠牲」をささげる事によって神の「怒り」を鎮め、天罰を避けようという考えに到達したのではないか。

 古代メキシコの文明では、彼らがささげる神へのその「犠牲」が、生きた人間から切り取った心臓だったことをご存じだろうか?

 メキシコの古代遺跡には決まって球技場がある。両側を石塀で囲まれた壁の中央ほどに、石製の直径五十センチほどの輪があり、選手たちは硬いゴムの球を腰を使って打ち合いながら、その穴にボールを通すことで得点する。

 サッカーに似ているが、まったく異なるのは、ボールを通すことができた選手が「心臓をささげる犠牲者」となり、彼はそれを「名誉ある死」と信じていたとされることだ。これには諸説あるが…。

 自らの命を惜しげなく差し出す行為は、七十年前に終結した太平洋戦争で、米艦めがけて飛行機で体当たりし、「カミカゼ」と国際語にもなっている自爆攻撃や、忠臣蔵などで有名な「ハラキリ」など、日本人特有の切腹による自死に通じるものがある。

 人間とは外部から洗脳されることによって「死」を恐れなくなる「奇妙な生物」とも言えよう。

 「死者の日」に話を戻そう。日本の「お盆」と異なるのは、それが、しめやかなものではなく、楽団を雇い、音楽もダンスも添えた、にぎやかな「歓迎会」に近いことだ。

 陽気なお祭りは二〇〇三年、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録された。メキシコ人にとって、「死」は恐れるものではなく、常に友達のように付き合うもので、骸骨は、死と生まれ変わりの象徴として、身近で歓迎すべき存在なのだ。

 次回は天使のバイオリン人形を紹介しよう。 (バイオリニスト)


《東京新聞:黒沼ユリ子の御宿日記》

  ー宇宙への永遠(とわ)の旅に出た彼ー         2015年7月6日

 生きとし生けるものには、必ずいつか死が訪れる。十五世紀のアステカ帝国の哲学者で詩人の皇帝ネサワルコヨトルは「人のいのちは花の如し。願わくば、少しでも遅く萎(しお)れる時が来ますように…」と詠んだという。

 さる五月二十七日、自分の良きパートナー渡部高揚(わたべこうよう)がメキシコで急逝。六月十四日には「御宿ネットワーク」のみなさんの呼びかけによって「偲(しの)ぶ会」が開かれた。数々の温かいお言葉と音楽演奏が、美しい花が咲き誇っていたころの彼の姿を鮮やかに浮かび上がらせ、胸に迫った。四半世紀もの間、共に手を取り合って歩んできた私にとっては、宇宙旅行に出発する人を送り出す無二の「アディオス(さよなら)!」のように聞こえた。

 「ごめんね。これから半年ぐらい君と会えなくなりそうなんだ」

 「えっ、どうして?」

 「実はNASA(米航空宇宙局)でアームストロング船長から次の『月面着陸』に招待されたんだよ。月に行くためには、無重力に慣れるための厳しい訓練を何カ月も受けなくてはならないから…」

 瞬時に月面に着陸した彼の宇宙飛行士姿を思い浮かべ、ほとんど絶句状態の顔の私を見て続けた。

 「ところで今日は何日だったかなぁ?」

 「四月一日…。あっ、エープリルフールだ。またやられちゃった!」

 彼にはこんな調子のユーモアがあった。文化イベントプロデューサーとして、大阪万博(一九七〇年)や沖縄国際海洋博覧会(七五年)、「ヨーロッパ拷問展」(九七年)などを手掛けていたが、NASA関連の仕事でよく米ヒューストンの「ジョンソン宇宙センター」にも通っていた。NASAから職員専用のネーム入りジャンパーも与えられていたのですっかりだまされてしまったのだった。

 実際、彼が都議たちをNASAに案内した折には、私も一緒に紛れ込んで、バスでスペースシャトルが着陸する広大な滑走路のすぐそばまで行って見学させてもらったこともあった。今は、あの日のジョークを思い出すだけでも笑い泣きしてしまう。

 彼と知り合ったのは一九八八年。百年前の一八八八年、明治政府はメキシコと修好通商条約を締結した。それは治外法権がなく、関税自主権のある平等条約であり、当時、西欧の列強(米国、英国、フランス、ドイツなど)から強いられていた不平等条約を改正させる強力なバネになった。

 その記憶を蘇(よみがえ)らせようと、コロンブスが大西洋を横断したマリガランテ号(後にサンタ・マリア号と改名)という木造の帆船をメキシコから太平洋を横断させ、日本各地に寄港する親善行事をプロデュースしたのも彼だった。

 船はその八年前からメキシコの船大工たちが、手さぐりで建造し始めたが、途中、資金が尽きて頓挫し、大西洋の砂浜に置き去りにされていた。

 当時、外務省の外郭団体「フロンティア協会」理事長を務めていた彼は、まるで恐竜の化石のような船底の写真を新聞で偶然に見つけ「どうしてもこれを日本で見せたい」と決意。「マリガランテ・プロジェクト」を立ち上げ、不足資金の調達に東奔西走して完成させたのだった。

 だがまさか、その船が御宿の網代湾にも停泊し、記念式典に彼も出席していたとは…。つまり、私よりはるか前に御宿を訪れていたとは、昨年町に定住を決めるまで全く知らなかった。

 マリガランテ号は航海にあたり「地球人宣言」を掲げた。

 「21世紀を目前にしたいま、私たちはこの地球の本当の姿を見直してみる時を迎えている。(略)東と西、南と北、表と裏などという片寄りの視点を外し、地球の形と同じように丸い見方をする時を迎えている」

 常に誰より一歩先んじて歩んでいた渡部高揚は、七十八歳になる二日前に、早くも帰途のない宇宙に旅立ってしまった。最後まで私より一歩早く…。そんなに急がなくても良かったのに何故(なぜ)?と訊(き)きたい。


《東京新聞:黒沼ユリ子の御宿日記》

       ー「地球人二世」の誕生ー           2015年6月1日

成田空港から直行便で約十四時間。ワシントンDCに着いた。米国立衛生研究所(NIH)で研究生活を送る息子夫婦の間に生まれた初孫に会うための「おばあちゃんデビュー」の旅。

 「インフルエンザなどの予防接種は済ませておくこと」という息子からの指令は守ってきたのだが、機内で予期せぬ病原菌と接触している可能性もあるとして検疫のため、ホテルで足止めさせられてしまった。

 幸い私に発熱もなかったので、ようやく四日後、孫を腕に抱かせてもらう。何と小さく、軽いのだろう。人間が生まれるときには、こんなにもか弱いことをすっかり忘れていた。四十八年前に息子を産んで以来、私は今日までなぜか生後まもない赤ん坊を抱く機会に恵まれていなかったのだ。

 この子もいつの日かは、野口英世博士のように口ひげを生やしたり、白髪まじりになっているのかしら…。まだ髪の毛もろくに育っていない赤ん坊の顔を見ながら、大人になったころの様相に思いをめぐらせていたら、「検疫待機」による自分の不機嫌な気持ちも吹き飛んでしまった。

 よく、忙しい時に手がまわらないと「まごまご」すると言うが、語源は「孫々」ではないかと思ってしまう。何しろ赤ん坊とは独裁者のように「待ったなし」だ。「ミルクを飲みたい!」「眠い!」「オムツを替えて!」と泣き声で命令。

 でもこの三拍子さえ守り、あとは「いい子だ、いい子だ」を連発すれば笑顔まで見せてくれる。これまでは左手にバイオリンより重いものを持ったことのない私だったが、いつの間にか左肘に孫の頭を載せて抱きながら踊っている自分に気付き、微苦笑してしまった。

 そのダンスで眠りに落ち、安心しきった孫の顔を眺めていると、いつしか四十八年前に息子を抱いていた時から今日までの人生のさまざまな情景が止めどもなく思い起こされてくる。それは「おばあちゃんにはなれないだろう」と半ばあきらめかけていた私に孫が運んできてくれた最高のプレゼントなのかもしれない。

 息子のアドリアン・龍・フェレーは東京の病院で生まれたので当然、日本国籍をもらえるものと私は思っていた。しかし、当時の日本の法律は「外国人男性と日本人女性の間の子には、日本国籍を与えない」と知って愕然(がくぜん)とした。何という封建的な父系社会か。

 「それならばメキシコ国籍の息子に完璧な日本語を教えてみせる」と発奮したわけでもないが、今では「日本語お上手ですね。どこで勉強されて?」と訊(き)かれると、「古今亭志ん生博士と三遊亭金馬教授からです」などと冗談まで言える息子になっている。彼が中学生の頃から一緒に落語をカセットテープでよく聞き、笑いながら日本語を教えたので、今でも私たちの会話では落語のさわりやオチに事欠かない。

 息子は、何回か試みた日本の小学校への体験入学で、ハーフゆえの「いじめ」によくあい、私の両親を悲しませた。しばしば「君はメキシコ人? それとも日本人?」と訊かれたが、そのつど「ボクは地球人だよ」と答えていたものだ。

 私の孫は何と答えるようになるのだろうか。父親はメキシコ人と日本人のハーフ。母親はルーマニア人とポーランド人のハーフで、本人は米国生まれ。国籍は米国だが、地球人の二世だ。でも孫にも日本には興味を持ってもらいたい。さあ大変だ。日本語を母語のように覚えてもらうためには、今後も「まごまご」と、ワシントン詣でを続けなくてはならないだろう。

 今日では、父親が外国人でも母親が日本人であれば日本国籍を取得できるように法律が改正された。昨今のテレビ番組では、ハーフの日本人が堂々と抜てきされている。日本もようやく国際化したと言うべきなのか。私の国際結婚も息子の誕生も、時代を先取りし過ぎていたのかもしれないが、まずは、めでたし、めでたしである。


     《東京新聞:黒沼ユリ子の御宿日記》

      ー多様性重んじるメキシコ料理ー         ー2015年5月4日ー

 

 御宿町で「メキシコ料理教室」を開いてほしいという依頼を受けた。日本での外国料理の代表格は何と言っても「フランス料理」と「イタリア料理」だろうと思うが、今なぜ「メキシコ料理」なのか?

 「和食」は二〇一三年十二月、国連教育科学文化機関(ユネスコ)によって「無形文化遺産」に登録された。だが、食に関する文化遺産の登録はその時すでに五番目。「フランスの美食術」や、スペイン、イタリア、ギリシャ、モロッコの「地中海料理」とともに世界で最初に登録されていたのが、驚くなかれ「メキシコの伝統料理」。ほとんどの日本人は、それを知らないだろう。

 なにゆえメキシコ料理なのか、と聞かれそうだが、それは七千年の間、途切れることなく今日まで、豊かな食生活が生きていることが認められたからにほかならない。

 野菜の食材ひとつをとってみても、メキシコが世界に送り出し、今日それがどこの国の食卓にも不可欠になっているものは、十指に余るのだ。トマト、とうもろこし、唐辛子、ピーマン、ピミエント(パプリカ)、さつまいも、かぼちゃ、ハヤトウリ、ヒカマ(くずいも)、いんげん豆、落花生、カカオ(チョコレート)、アボカド、バニラ…。

 「まさか、そんなに!」と思われるだろうが、これらがスペインからヨーロッパに、そしてスペインの副王領としてのメキシコが統治していたフィリピンからアジアに渡り、今日の世界の料理をより豊かに、豪華に変貌させてきたのだ。

 スペインは一五一九年、エルナン・コルテスがメキシコ征服を初めて試み、一度目は失敗して敗走させられるが、その二年後、強大な武力により、ついに征服に成功し、スペインの植民地としてしまう。

 だが、それまでメキシコを治めていたアステカ帝国の首都テノチティトランの人口は二十万人。当時ヨーロッパで最大の都市だったスペインのセビリアの人口はその半分にも満たなかった。そして、アステカ帝国最後の皇帝モクテスマ二世の食卓には毎晩、異なった種類の料理の皿が四十品も並べられていたことにスペイン兵士たちが目を丸くしたことをコルテスに仕え「メキシコ征服記」を記したベルナル・ディアスが記録している。

 つまりメキシコでは代々、人々が栄養バランスの優れた食生活をしていたことにより、人口がヨーロッパよりもはるかに多かったことを証明していたわけだ。

 早速、メキシコ人とスペイン人の人種の混血が始まったのだが、食べ物の面でも「スペイン料理」が浸透しはじめる。スペインはそれまで数世紀にわたってアラブ人と共に暮らしていたことでアラブ料理からの影響も濃く、その影響でメキシコ料理がさらに深みを増したと言えよう。

 「メキシコ料理って、とっても辛いでしょう?」とよく聞かれるが、答えは「アイ・デ・トード」。スペイン語で「いろいろあるさ」という意味だ。

 この場合は「辛いものも甘いものもある」と言う意味だが、メキシコでは、人それぞれの見方、考え方、解釈の仕方に至るまでいろいろな場面で使われる便利な言い回しだ。

 それは「多様性の尊重」とも解釈できるのではないか。多様性があればこそ寛容性が同居し、自分と異質な考えを許すことが可能になる。それが互いに相手を尊重することになり、平和にもつながる-。そう言ってしまえば、あまりにも簡単すぎるかもしれない。

 だが、多様性を認めず自己中心主義に陥ることから、すべての争いが始まる。「辛さ」はいくらでも調整できる「アイ・デ・トード」のメキシコ料理を食べながら、世界の現状に思いをはせるのも悪くはないのでは? (バイオリニスト)


  《東京新聞:黒沼ユリ子の御宿日記》

        ー今こそ海外経験を生かすー

                 2015年4月6日

 日本に帰り、少し落ち着いてきた三月半ば、ピアニストの関晴子さんら桐朋学園高校時代の同級生数人と御宿で落ち合った。高校三年生で私がプラハに留学して以来、何と五十七年ぶりに会う同級生もいて、感動的な再会になった。全員白髪交じりで今年七十五歳になる。豊かな人生経験を積んで来た証しが、誰の顔にもにじんでいた。

 山ほどの懐かしい思い出があって再会は楽しい。中でも二十年ほど前、メキシコのわが家を突然訪ねて来て驚かされたK君との再会は特にうれしかった。

 

 彼はメキシコに来たその折、「ドイツの大統領と一緒に来ているんだ」と言ったのでびっくりしたことを思い出す。実は、ドイツの大統領が国賓として他国を訪問する時には、必ずオーケストラも記者団と一緒に大統領特別機に同乗させるから、という。「さすがは音楽大国のドイツだわ」と、私はうらやましく思いつつ、納得したのだった。

 その彼は、四十年近くもドイツのあるオーケストラのメンバーとして活躍し、定年退職を目前に控え、永住するため家を建てた。するとそれまで親しくしていたオーケストラの同僚たちから「あいつ、本気でここに居残るらしいぞ」という嫌みが聞こえて来て愕然(がくぜん)とし、怒り心頭に発したと言う。

 「結局俺たち、いつまでたっても日本の外では外国人なんだよ」と語る今日のK君の表情からは、ドイツ人に対しての恨みや辛みはもう薄れているようだった。

 

 夫婦のどちらかがドイツ人であれば別だが、両方とも日本人の場合、ドイツ人と対等に扱われることはほぼ無理な相談。勉強に来る留学生は歓迎だが、住みつく外国人はウエルカムではないとか。「黒沼さんはいい決断をしたと思うよ。やっぱり日本人は日本に住むのが一番幸せだと思うから…」とK君。

 同級生の中で日本を最初に飛び出したのは私だったが、その後アメリカ、フランス、ドイツなど、ほぼ全員に海外生活の経験があったためか、みんな無言でうなずいていた。

 むろん私もその中の一人で、異国に骨を埋めることに何の疑問も感じていなかった若い頃の自分がおかしくなった。何しろ七十歳を越えた今、まるでジグソーパズルの最後の数片が、順々にピタリと収まり始める時のような感じで日本に落ち着き、安堵(あんど)しているのだから…。

 

 もし「その矛盾を説明せよ」と言われたら何と答えられるだろうか。自分でさえ夢想だにしていなかった帰国だから「やはりトシですかねぇ」と答えるしかない。本当はもっと深い理由もあるのだが、長くなるので、今ここでは控えておく。

 だが何と言っても「海外生活五十年の空白」は大きい。「近頃の若い者は…」とは、おそらく縄文時代から言われ続けて来た台詞(せりふ)かもしれないが、戦後七十年の日本の民主主義、平和主義は一体どうなってしまったのか。世襲政治家に任せっきりの「知らん顔族」があまりにも多すぎないだろうか。思わず首をひねってしまうことばかりだ。

 人は、自分の姿を見たい時に鏡をのぞくように、世界の中の日本が見えないならば、海外で発信されている日本についてのニュースにもっと目を向けるべきではないだろうか。

 

 「マジ?」とか「メッチャ」など変な日本語を使うニュー・ジャパニーズには大きい鏡を渡さねばなるまい。われわれ海外生活を体験した音楽家の「リターン組」はその鏡たり得るのではないだろうか。

 あるいは、日本の現状が客観的に読める特殊なメガネが必要なのかもしれない。この国の将来の姿を決めるのは、日本人以外の誰でもないことを再認識できるメガネが。 


  《東京新聞:黒沼ユリ子の御宿日記》

     「夕鶴」に学ぶ強欲の愚かさー

               2015年3月2日

 二月二十一日、横浜市の神奈川県立音楽堂。まるで時間が止まっていたかのように、私が中学生のころ演奏した時と全く同じ建物を眼前にして、感無量だった。ステージでバイオリンの調弦を始めた瞬間、あの懐かしい丸い響きも跳ね返って来た。音楽堂は私を待っていてくれたのか。ここでの「さよならリサイタル」で私は、六十余年も前から私の歩みにずっと寄り添ってくださった多くの方に、心からのお礼の気持ちを演奏で届けたかった。どうやら自分のバイオリン人生もハ短(破たん)調ではなく、明るいハ長調のアコード(和音)で無事に終えることができたようだ。(写真は2008年9月「夕鶴」公演。於:千葉文化会館。メキシコ歌手陣と千葉県少年少女オーケストラによる公演

 

 だが、今の日本はどうだろう。ハ短(破たん)調の道を歩んでいないだろうか。太平洋戦争の敗戦から三年後に私がバイオリンを手にできる頃まで、防空壕(ごう)で焼け残った母の着物を父が二束三文で闇市で売り飛ばしては食べ物を探し求める、今では死語になった「タケノコ生活」を経験した。僅(わず)かばかりの食品の配給のために、進駐軍のトラックの後ろに長蛇の列を作って並んだことは、五歳だった自分の記憶にもしっかりと刻まれている。

 戦後七十年。灰の中から日本人は必死の努力をしながら、今日の高い科学技術や文化芸術を築き上げてきた。「奇跡の復興」を成し遂げたのは、日本国憲法、特に九条により徹底して戦争を放棄したからだという事実も、世界に知れ渡っている。日本は平和国家のモデルだったはずだ。

 

 にもかかわらず、国民一人一人の真意も問わずに、今日の政府は閣議決定のみで集団的自衛権の行使を認め、平和憲法を骨抜きにしようとしているではないか。その上、武器輸出三原則も見直し、全てを破壊するための武器を作って輸出してまで国内総生産(GDP)を高めることに躍起になっている。なぜだろうか。

 日本人なら誰もが知っている昔話「鶴の恩返し」に木下順二が台本を、「♪ぞうさん ぞうさん」の童謡で有名な團伊玖磨が曲を書いた「夕鶴」というオペラがある。

 

 それを私はメキシコの歌手たちに日本語で歌ってもらい、二〇〇五年以来、メキシコと日本各地で上演を重ねて来た。

 「♪なぁんの報いも求めないでぇ~」鶴を助けた善良な貧しい農夫のところへ、美しい女性に変身した鶴がお嫁に来る。彼女はそのお礼にと、生きた鶴の羽を織り込んだ布を夜な夜な織った。「♪決してのぞき見しないこと~。きっと、きっとよ~」と夫に約束させて。そこに隣村の強欲な男衆が現れ、「♪もっと織らせるだ~」と命じる。「♪都さ持って行~けば、千両になるだぁ」と。

 当初は渋っていた夫も執拗(しつよう)な誘惑に負け、ついに約束を破って鶴の姿を見てしまう。翌朝、やせ細った妻が織ったばかりの「千羽織り」を持って出てきて、あの美しく悲しい「♪さよ~ならぁ~」のアリアを歌って空に飛び立つ。残された夫は、後悔の念に苦しみながら「♪つぅ~」「♪つぅ~」と痛恨の叫び声を残し、幕となる。

 字幕を追うメキシコの聴衆も、最後に幕が下りた後、すぐには誰も客席から立ち上がれない。自戒の念が脳裏をよぎるのではないだろうか。涙をぬぐう人も多い。

 

 鶴女房のアリア「♪お金ぇ~、お金ぇ~、どうしてそんなに欲しいものなの~」を聴くたびに、私は今の社会を思わずにいられない。

 人間の強欲は、一体どうしたら止めることができるのだろうか。どんな理由を並べられても、私は絶対に戦争に反対だ。人を殺す武器や原子力発電のノウハウを売ってまでの経済発展など要らない。廃棄物処理に気の遠くなるほど時間のかかる原発の再稼働にも反対だ。汚染させた地球をこのまま孫の世代に残すわけにはいかないから。 


     《東京新聞:黒沼ユリ子の御宿日記》

  ー「新たな歴史紡ぐドゥダメル」ー   2015年2月2日

一人の人物の登場により歴史は新たな章を紡ぐ。それが今日、南米ベネズエラ生まれのグスターボ・ドゥダメルという指揮者によって、欧米のクラシック音楽界に起こりつつある。

 一九八一年生まれの彼はドイツの指揮者コンクールで優勝し、彗星(すいせい)のごとく世界の檜(ひのき)舞台に躍り出て約十年になるが、これほどのスピードで世界を席巻できた音楽家は皆無だろう。

 「この国は地震でも起きないかぎり、日本ではニュースにならないのですよ」。八〇年代にベネズエラを演奏旅行で訪れた際、当時の村岡邦男大使が苦笑されたことを思い出す。

 メキシコで八〇年以来、私が「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」を開いていたことが話題に上ると、「あなたと似たようなことをしている『エル・システマ』という音楽活動がここにもありますよ」と聞き、その主宰者のホセ・アントニオ・アブレウ氏とお会いする機会ができた。

 彼らのスタートは「アカデミア」より五年早い七五年。当時の私はつゆとも知らなかった。「教育環境の悪い貧困家庭の子どもたちに楽器を貸与し、音楽を通して社会をより良くするために」をスローガンに、地方の隅々まで巻き込んだ大音楽運動を政府と協力して展開しているとのことで彼が羨ましかった。

 その後九六年に私が首都カラカスで、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲を共演したオーケストラが、何とその「エル・システマ」から誕生したシモン・ボリバル交響楽団だった。現在はそこから巣立ったドゥダメルが芸術監督を務める。

 リハーサル初日、あまりにも多くの弦楽器奏者が座っているのに私はわが目を疑う。しかし共演してみると、音量のコントロールが信じられないほど見事で、トゥッティ(全奏)は生き生きとした喜びに満ちあふれていたことが今懐かしく思い出される。

 この土地だったのだ。ドゥダメルの種がまかれ、大切に育てられ、「不世出の大指揮者の花」を咲かせたのは…。何しろ彼はまだ三十四歳で、この世界では全くの「若造」。にもかかわらず彼の指揮棒が最終音を閉じる瞬間、まるでサッカーの試合でゴールが入った時のファンのように聴衆は熱狂し、興奮して拍手の手を止めようとしない。ロンドンやパリでのその模様は今、誰でもインターネットで見られるのだ。これも前代未聞と言えよう。

 では一体、ドゥダメルの音楽の何が世界中の聴衆をここまで狂喜させ、幸せにするのだろうか。

 それは長い伝統に培われ守られてきた、いわば老齢化したような西洋音楽の演奏を一変して「若返らせたから」と言うだけでは、あまりにも稚拙な解説になってしまうだろう。

 彼の指揮棒は、あたかもたった今、生まれたばかりの作品を演奏させられているかのようにオーケストラの全奏者を演奏に没入し夢中にさせてしまう。全員の魂を一つにして高揚させてしまうのだ。他方、まるでアカデミー賞の最新話題作に立ち会う時のように、聴衆は眼と耳をくぎ付けにさせられてしまう。

 もしかして、彼の身体の中には「音楽の悦(よろこ)び」という何か小動物にも似た者が潜んでいるのでは?と、私の想像力を幼稚に飛躍させさえする。彼が指揮棒を振り下ろすと同時にそれが目をさまし、彼の体内で踊り出すのではないか、と…。

 歓喜し、笑い、泣き、怒り、そして悲しむ。誰もが感じる人間の感情を、音楽で老若男女の聴衆一人一人に確実に伝えてしまうドゥダメルを、往年の大指揮者フルトベングラーやカラヤンは一体どうみるだろうか。

 ヨーロッパが独り占めしていた二十世紀はすでに終わったことを告げ、新しい光を持ち込む「新人類」として、ドゥダメルは今後の二十一世紀をリードし続けられるのだろうか。

 カオスを極める世界の現実は、あまりにも悲しく憂鬱(ゆううつ)で、立腹したくなることばかり。正直、ひと足先に鬼籍に入った先輩たちが羨ましくなる日も多々ある私だが、「やっぱり生きている甲斐(かい)はあるんだわ」と独りでうなずくこの頃だ。 (バイオリニスト)


   《東京新聞:黒沼ユリ子の御宿日記》

  ー人生の区切りに思う戦後70年ー       2015年1月12日

 昨年はメキシコや東京で引っ越しに追われた。「後期高齢者世代」のことをメキシコでは「これまで決しての世代」(エダー・デ・ラス・ヌンカス)と冗談まじりに言う。つまり私にとっての昨年は、「これまで決して」無かったほどの大型引っ越し年(イヤー)で、「もうこれで引っ越し嫌(いやぁー)」と言いたくなる年だった。

 以前にも大西洋や太平洋をまたいだ引っ越しを何回となく経験していた私だが、何しろ今回は四十年余りも自分の生活の本拠地としていたメキシコから日本への引っ越しなので、たまりにたまった、全く記憶になかったモノたちが次々と目の前に現れ、ビックリし通しだった。

 これもメキシコ人たちが言う「悪いことは良いことのためにしかやって来ない」と考えて、この引っ越しが人生最後の「ひと区切り」をつけてくれたのだと、ありがたく思うことにした。

 古今不滅の有名交響曲には、コントラストに富んだ楽章が次々と現れるからこそ、百年を経ても名曲として生き続けているのではないだろうか。

 歴史とは交響曲の楽章を重ねるようなものだ。二〇一五年を戦後七十年という大きな「区切り」と考える時、過去から学んだことを明日につなげなければ、と切実に思う。

 一九四五年八月、日本が無条件降伏した後の空腹の度合いは、当時五歳だった自分の記憶にもはっきりと刻まれている。そして、その後の日本の経済発展は、平和憲法の下で「戦争知らずの七十年間」であったからこそ、ということを忘れてはならない。

 さらにこの間、日本が見て見ぬ振りをしてきたアジアの隣国との関係にも、この際「ひと区切り」をつけて改めることはできないものだろうか。

 今回の引っ越しで一九五八年にプラハへ留学して以降、私が海外から親元に送り続けた絵はがきの束が東京の母の家から出てきた。

 その中に「中国人留学生と仲良くなって話をしていたら、彼女に『日本人は中国人を嫌いでしょ?』と決め付けて聞かれたので、びっくりしました。はじめから否定形だったので…」と書いてある一枚を見つけた。それは五十年以上も前に書いた手紙なのだが、もし現在そう聞かれても、誰も不思議には思わないのではないだろうか。

 同じ敗戦国のドイツは、侵略、占領したフランスと和を結び、欧州連合(EU)の統合を進めているのに対し、日本と中国、韓国、東南アジアとの関係は残念ながらまだその域には達していない。

 ドイツのガウク大統領は二〇一三年九月、大戦中にナチス親衛隊が村民ほぼ全員を殺害したフランス中部オラドゥール村を独首脳として初めて訪ねた。そして虐殺現場が当時のまま保存された廃虚の中をフランスのオランド大統領と一緒に、奇跡的に虐殺を免れた生存者と手を取り合い慰霊したという。

 欧州の歴史家たちは、歴史認識を共有し、各国共同で使う現代史の教科書を作った。私の夫は、ポーランド南部にあるアウシュビッツ強制収容所跡の国立博物館前にドイツ人学生を乗せたバスが並んでいるところを目の当たりにしている。

 自己の犯した罪を心の底から認めて謝罪しなければ二度と再び友人にはなれないことは、小学生でも知っている。

 日本の歴史を創る政治家たちも、各楽章に変化を加えつつ最終楽章の結尾部(コーダ)に運ぶ大作曲家のように、「世界平和」という最終目的に向かって大胆な変革の「区切り」を歴史にもたらすよう、果敢に挑んでもらいたい。







          スーク、ヴァイオリンとオーケストラのためのファンタジー 

   黒沼ユリ子 ズデニュック・コシュレル/ チェコフィルハーモニー

                             1976年11月17日 大阪フェスティバルホール